京都岡崎在の山本竟山を呼びかけ人として「平安同好会」を発足しました。 6人で始まった毎月の例会では書に関して活発な意見交換が行われ、園田湖城や中野越南といった、 京都の著名な文人書家が相次いで参加していきました。大正9年
名称を「平安書道会」と改め、ここに当会が正式に発足しました。当時、学識と技術両面の 研鑽を目的として活動し、また恒常的に公募展を開催したので、新進書家の登竜門ともなって 盛況を呈しました。昭和6年
平安書道会も、それまでの同好会的なものから、役員を決めて運営する組織に改められ、 初代会長に京都大学の荒木寅三郎(鳳崗)を迎え、副会長には上海から帰国した長尾甲(雨山) が就き、会の中心として活動しました。昭和8年
会は学芸部・事業部の二部を設け、学芸部長に京都大学の内藤虎次郎(湖南)が就任し同学の 狩野直喜(君山)博士や、国学者の山本行範(紫竹)、下御霊神社神主の出雲路敬通(春鵜)らを 顧問に迎えました。山本や出雲路ら仮名書道の能書家の元には 古筆研究家の中野謙之助(越南)、 日比野五鳳らが集まり、京都における仮名書道の基礎をつくりあげました。昭和13年
平安書道会報」を発刊し、当時本会の審査員であった村上正一(三島)や、文学博士の高瀬武次郎 (惺軒)、長尾正和(復斎)らが文章を載せています。昭和18年以降
次第に戦時色が強まっていきました。戦況の悪化で会報も休刊、その後3年間展覧会は休止を 余儀なくされました。混乱の中、第二代会長の織田萬(鶴陰)は昭和20年の東京大空襲で亡くなりました。昭和21年
戦後まもなく、文学博士の吉澤義則を第三代会長に迎えて活動を再開し、翌年からは公募展も 復活しました。昭和25年
30周年記念を迎え、新たに会誌「書道」を創刊します。編集を中国文化史研究の中田勇次郎が担当し、 レベルの高い会誌として40周年記念まで6冊発行されました。昭和27年
公募展は京都市立美術館で開かれるようになりました。この頃、副会長の日比野五鳳と松永非石が 活躍し当会の復興と発展に寄与した。昭和30年
第四代会長に京都国立博物館館長の神田喜一郎が就任。37年は雑誌「書道」に代わり 「平安書道会会報」が創刊され、公募展に清書コンクールが併設開催されました。昭和43年
神田会長が名誉会長となり、第五代会長に綾村坦園が就きました。また副会長は仮名の大家で 画家としても高名な上田星邨が、役員には石橋犀水,飯島春敬,植村和堂,金子鴎亭,梅 舒適ら、 書壇の高名な書家が名を連ねました。昭和45年
50周年を迎え、記念図録を出版しました。役員の小品展・英華展や「日韓交流展」を開催し、 活動的に事業展開して会員の研鑽を図りました。昭和55年
第60回記念図録を発行、また記念事業として「尚歯会」を開催など、さまざまな事業を展開を していきました。昭和56年
役員による小品展・英華展を改称「聚英展」として第一回展を京都伝統産業館にて開催しました。平成2年
第70回記念図録を発行し、また聚英展も10回目を迎え、京都文化博物館にて開催しました。平成11年
綾村坦園会長の逝去のあと、副会長で元大手前女子大学学長の日比野丈夫が第六代会長に就任し、 組織の充実を図りました。平成19年
日比野丈夫会長逝去。平成20年
第7代会長として元京都女子大学学長の狩野直禎氏を迎え副会長に植田穂積、 理事長澤田剛城、副理事長西村格外と組織を新たにし、公募展や聚英展のほか、各界より講師を 招いて講習会・研修会を開くなど、一層の研鑽を深め、会員相互の交流を深めています。平成22年
澤田剛城氏勇退(現参与)のため、理事長西村格外、副理事長都賀田久馬、同堀部青霄と組織を 再編し、次の百周年に向けて公募展や聚英展の充実を図り、各界より講師を招いての講習会や 研修会を積極的に開き、一層の研鑽を深め、会員相互の交流を深めています。
最終更新日2011.4.05
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